幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。(詩篇128篇1節)
1.詩篇119章1節―3節
2.マタイの福音書7章13節ー14節
3.ヨハネの福音書14章1節ー6節
4.使徒の働き2章14節ー32節
富士山の山頂に登るルートに富士吉田から、御殿場から、富士宮から、須走からと4つのルートがるように、人はとかくどんな宗教でも行き着くところは同じのように考えがちですが、宗教は、最初はいかにもすばらしいように見えても、罪や死の解決を与えることができずに、人を救うよりも、修行や苦行をともなうものであり、そこには恵みがないののではないでしょうか。かつてある宣教師さんから伺ったのですが、ある日、お年寄りの男性が教会に訪ねて来て、奥様が病気になり、医者から見放された状態になったので、奥様が癒されるようにある宗教に入信したところ、お金を要求されたので、その金額をささげても癒されませんでしたが、それは捧げる金額が少ないから、と言われ田畑を売って捧げましたが、結局奥様は亡くなられただけでなく、財産を失ったことを話されたそうです。宣教師さんが聖書からいろいろ話されると、その方は「私はもっとはやく教会に来るべきうだった。」と話されたそうです。箴言14章12節と箴言16章25節に「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」と語っていますが、イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネの福音書14章6節)」と仰せられたように、主の道は永遠のいのちへの道であり、人の考えや世全体を支配している悪魔のささやきを神の託宣と勘違いしている人々によって起こされた宗教とは次元が全く違う世界を語っています。今日の聖句が「幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。」と語っているように、キリストは、主を恐れる、すなわち、主がどんなに偉大な方であるかを知っており、御国を目指して、主の道、すなわちいのちの道を歩ませていただいてることを喜ぶととも、いのちのみことばをしっかり握って(ピリピ人への手紙2章16節)生きようではありませんか。