神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(コリンと人への手紙 第二 7章10節)

1.サムエル記 第一301節―19
2.ネヘミヤ記8章1節ー12節
3.伝道者の書7章1節ー4節

今日の聖句は「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」と二種類の悲しみについて語るとともに、その悲しみがもたらす結果を語っています。世の悲しみは後悔をもたらすことができても、過去の罪や過ちから逃れる道を示すことが、救いをもたらすことができずに「死」が解決であるかのように思わせるのではないでしょうか。一方、神のみここに添ったかなしには、悔いのない、すなわち後悔するのではなく、かえって神のもとに向かわせる悔い改めへと導かれることを語っています。ダビデはイスラエルの地にあって神がどんな状況にあってもダビデを殺そうとしているサウルの手から守られたにもかかわらず、「私はいつか、いまにサウルの手によって滅ぼされるであろう。ペリシテ人の地にのがれるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、私をイスラエルの領土内で、くまなく捜すのをあきらめるであろう。こうして私は彼の手からのがれよう。」と考えて、ペリシテのガテの王アキシ王のところに渡って行き、アキシ王のところに渡って行ったのですが、イスラエルとの戦いに同行するように求められても、彼は神に祈ることもしませんでしたが、神はペリシテ人の首長たちを用いてダビデがイスラエルとの戦いに同行しなくてすむように配慮されたのでした。彼らが彼らの住んでいたツイケラグに帰ってみるとアマレク人が襲った後で、町は焼かれ、家族をはじめすべてのものが略奪されていたので、部下もダビデも声をあげて泣いただけでなく、部下たちがダビデを石で打ち殺そうと言い出したので、ダビデは非常に悩んだのですが、そのとき「ダビデは彼の神、主によって奮い立った」とあるように、神に立ち返り、略奪隊を追うべきかどうかを主に伺ったので、主は「追え、必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」と約束され、神が約束されたとおりすべてのものを取り戻したのでした(サムエル記 第一 27章1節−2節及び29章ー30章20節)。神のもこころにかなった悲しみは、後悔する人生ではなく、かえって神に立ち返り、神の愛と恵みの深さを知ることになるのではないでしょうか。過去の罪や過ちで悩んで後悔し続けるのではなく、罪を取り除くために来られた信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないようにするとともに、世の人々に後悔する人生ではなく、イエス様を信じることによって、いつでもやりなおしが、すべてが新しくされる人生があることを紹介しようではありませんか。