主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。(テサロニケへの手紙 第一5章10節)

1.詩篇1211節―8
2.詩篇1391節―12
3.ローマ人への手紙5章6節―10節
4.ローマ人への手紙6章4節―11節

イザヤ書43章1節―4節は「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず。炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセパをあなたの代わりとする。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。』」と、主はどんな時にも贖われた者とともにおられることを語っていますが、4節後半の「だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」を削り、4節前半の「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」という部分だけが一人歩きし、パウロがキリストを信じる前は神の敵という存在であったこと(ローマ人への手紙5章10節)「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです(テモテへの手紙 第一1章15節)。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょう。(ローマ人への手紙7章24節)」と嘆いているにもかかわらず、「御子イエス様が人としてこの世にこられたのは、一人一人がいかに尊い存在であるかを知らせるためです」とか「イエス様が十字架で死ななければならないほど神にとって人間は尊い価値ある存在なのです。」というイエス様の死に対する解釈は聞こえがよく、いかにも正しいかのように思われているふしがあるのではないでしょうか。主とともに永遠に生きることを可能にしてくださったイエス様の死をどう解釈するかが信仰生活に多大な影響を与えるのではないでしょうか。パウロは自分のみじめさを知ったことによってみじめな者のためにご自身をささげられたキリスト・イエスにある神の愛がどれほど大きく深いものであるかを知ったのでした(ローマ人への手紙8章38節―39節)。自分を見たら「みじめ」、と思うことの方が正常なように思わされますが、いかがでしょうか。