生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。(ペテロの手紙 第一2章2節)

1.詩篇11973節―80
2.使徒の働き2025節―32
3.ペテロの手紙 第一118節―23
4.ペテロの手紙 第二 3章3節ー18節

神がアダムに「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。(創世記2章16節―17節)」と警告してから、エバを創造されたのでした。サタンは神の警告を直接聞いていなかったエバに「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」と尋ねると、エバは「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもならない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」と答えましたが、聖書にはアダムがエバにどう伝えた書かれていませんので、エバがどうしてそのように答えたのかわかりませんが、神の警告のみことばそのものを語ったのではなかったことです。取って食べるためにはもちろん触れるという行為がなされますが、触れた時、神が「食べてはならない」と仰せられたみことばを思い出して食べなければ罪を犯すことはなかったのではないでしょうか。なぜなら、神は触れること自体を禁じていませんでしたから。人間関係が潤滑にいかない理由のひとつに人のことばをどう解釈するか、ということにあるように思わされます。今日の聖句は「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」と勧めています。生まれたばかりの乳飲み子に必要なのは母乳であり、母乳で足りない場合は、不純物が入っていない粉ミルクではないでしょうか。パウロは「私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。(コリント人への手紙 第二 2章17節)」と語っています。人はとかくみことばそのものよりも解釈の世界に足を滑らせてしまうと、みことばをどう解釈するかというような論争をしてしまうのではないでしょうか。イエス様は悪魔の試みにみことばそのもので対処し勝利されたように、自分の考えや思いで判断するのではなく、ヤコブの手紙1章21節が「心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」と勧めているように、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができる(ヘブル人への手紙4章12節)みことばに同意し、純粋な恵みのみことばそのもので生きるように努めようではありませんか。