私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(コリント人への手紙 第二12章10節)

1.伝道者の書911節―12
2.エレミヤ書923節―24
3.コリント人への手紙 第二 12章1節―10節

世の人々は強さを誇ったり、はやさを誇ったり、富を誇ったり、賢さを誇ったり、美しさを誇ったりしますが、主は「知恵ある者は自分の知恵を誇るな、つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行う者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。―主の御告げー(エレミヤ書9章23節―24節)」と、恵みとまことに満ちておられる主を知っていること以上に大切なものはないことを語っています。パウロは主を知る前は自分を誇りキリスト者を迫害していましたが、キリストを知ることによって迫害される者になられたのですが、それは、パウロが「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会った場合の彼は弱々しく、その話ぶりは、なっていない。(コリント人への手紙 第二10章10節)」と、語っているようにユダヤ人たちからだけでなく、キリスト者からも批判されたのでした。ですから、パウロは「さて兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス。・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。(コリント人への手紙 第一2章1節―5節)」と語っています。イエス様はパリサイ人や律法学者たちからことばのわなを仕掛けられましたが、神の知恵をもって物事を対処され多くの人から頼りにされていましたが、十字架に架けられた時、着物や下着を取られて恥ずかしめを受けましたし、「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」とあざけられたり、ののしられたりしましたが、主はそれに対して反応せず、父から与えられた使命に生き、殺されましたが、死からよみがえることによって死に勝利するいのち、永遠のいのちを、生ける希望を明らかにされ、栄光を現されたのでした。パウロは「私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」と語っていますが、その秘訣は主を知ったことによるのではないでしょうか。弱さや人の評価に悩むのではなく、そのような時こそ、主がどのように勝利されたかを思い起こして主の力が発揮される機会を主が与えてくださっている、と考え、信仰の創始者であり完成者であるとともに、神の力、神の知恵であるイエス様がともにいてくださることを思い起こすなら心の状態が変えられ、不思議な力が湧いてくるのではないでしょうか。