あなたに向かって、わたしは目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。(詩篇123篇1節)

1.詩篇17篇6節ー15節
2.マタイの福音書65節―13
3.ローマ人への手紙828節―39
4.ヘブル人への手紙12章2節―11節

人は神によって創造された存在であるために、人は神の存在を潜在的に知っているのではないでしょうか。ですから、さまざまな状況の中で「神」ということばが使われるのではないでしょうか。しかし、ヨハネの福音書1章18節が「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を解き明かされたのである。」と語っているように、神の声を聞き、イスラエルの民をエジプトから導き出されたモーセでさえも神の顔を見ることはできませんでした(出エジプト記33章18節―23節)。ですから、紅海を二つに分けられるほどの力をもった神であることを体験していながら、モーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見た民は「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか。私たちにはわからないから。」とアロンに迫ったのでした。そこで、アロンは民の金のイヤリングから金の子牛を造り、それを神とし偶像を神とするようなことをしたのですが、それは今なお世界中で見られる現象ではないでしょうか。パウロが「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。(ローマ人への手紙11章33節)」と語っているように、神は罪人を救うために御子を人としてこの世にお遣わしになり、十字架の死をもって恵みによる救いの道を開かれただけでなく、御子を死からよみがえらされ、死に勝利するいのちがあることを明らかにされ、人の考えでは把握できないようなことをされたのでした。パウロは父なる神の右の座に着かれたイエス様はキリスト者が罪に定められないようにとりなしていてくださることを語るとともに「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使も、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ人への手紙8章33節―39節)」と語っています。「なぜ」「どうして」と思われるようなことが起こった時、今日の聖句が「あなたに向かって、わたしは目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。」と語っているように天に座しておられる主を仰ぎ見て、私たちの神がどのような方であるかを思い起こすとともに、私たちには理解できない主の大きなご計画があることを心に留めて、信仰の完成者である主を信頼して歩み続けようではありませんか。