神は、深くて測り知れないことも、隠されていることもあらわし、暗黒にあるものを知り、ご自身に光を宿す。(ダニエル書2章22節)

1.詩篇1041節―2
2.詩篇1391節―12
3.テモテへの手紙 第一 69節―16
4.ヨハネの手紙 第一1章5節

人はさまざまな状況の中で「神」ということばを使いますが、一般的に語られる「神」は必ずしも聖書によって明らかにされている、人類を救うために御子イエス様をお遣わしになった父なる神、すべてを創造されただけでなく、罪人を救うために「なだめの供え物」としてご自身を捧げられたイエス様、そしてイエス様を信じる者に与えられる助け主である聖霊様からなる三位一体の神ではなく、人の手によって造られた偶像を神として拝んでいるために、口では神と言っても、神がどのような方であるかを本当の意味では知らないのではないでしょうか。今日の聖句が「神は、深くて測り知れないことも、隠されていることもあらわし、暗黒にあるものを知り、ご自身に光を宿す。」と語っているように、主ご自身が光であるがゆえに、ダビデは「ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。・・・たとい私が『おお、やみよ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜になれ』と言っても、あなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです(詩篇139篇4節及び11節―12節)」と、行いだけでなく心までも神はご存知であることを語っています。ところで、キリスト者もキリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けるのですが(コリント人への手紙 第二 5章10節)、パウロは「私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。(コリント人への手紙 第一4章4節―5節)」と、キリスト者の全生涯の罪や咎に対する罰は主が十字架で支払ってくださっているので咎められることがなく、称賛が届くと言われたのです。十字架によってもたらされた恵みの深さを心に留めて、主が喜ばれるかどうかを考えて信仰生活をおくるようにしようではありませんか。