主はすべてしいたげられている人々のために、正義とさばきを行われる。(詩篇103篇6節)
1.出エジプト記3章7節―10節
2.詩篇9篇8節―10節
3.詩篇146篇1節―7節
貧富の差が広がる状況の中で、資本を社会の共有財産に変えることによって資本家と労働者の階級や貧富の差がなくなるように、すべての人が平等に生きられるような共同体を目指したのが、共産主義の考え方でしたが、ロシアや中国の現状を見ると、貧富の差がなくなるどころか、その差は大きくなっているだけでなく、言論の自由さえも奪われているのではないでしょうか。特に共産主義というよりも独裁国家のように見える北朝鮮において顕著に見られるのではないでしょうか。ですから、ソロモンは「私は再び、日の下で行われるいっさいのしいたげを見た。見よ、しいたげられている者の涙を。彼らには慰める者がいない。しいたげる者が権力をふるう。しかし、彼らには慰める者がいない。(伝道者の書4章1節)」と、「日の下」すなわち「この世」を見て、悲惨な状況を指摘するだけでなく、与えられた権力をどのように用いるかを考えさるのではないでしょうか。。主はイスラエルの民がエジプトでしえたげられて苦しんでいるのを見て、エジプトから導き出して、アブラハムに約束した乳と蜜の流れる良い地に民が住むことができるようにモーセとモーセの後継者としてヨシュアを用いられたのですが、モーセの時代多くの奇蹟を体験しながらも主を信頼せず不平不満をもらしたので、40年の不毛の地である荒野を旅することになりましたが、その間、主は、昼は、途上の民を導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中におられ、民の前から離れず、民の必要を常に満たされたのでした。イザヤ書63章9節が「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」と語っているようにイスラエルの民が主を忘れても主はご自分の民を忘れないばかりか、イスラエルの民の後を追って来たエジプト軍が迫って来ると御使を民のしんがりに置いて闇をつくり、エジプト軍が民に近づかないようにされ、民が対岸に渡り終えると、紅海の海水を主が元にもどされたので、一人残らず溺死したのでした。ユダヤ人とキリスト者は他に類をみないほどの迫害を受けた歴史がありますが、今日の聖句がかたっているように、主は正義とさばきを行われる時を備えておられます。キリスト者はさばかれることなく永遠のいのちが与えられているだけでなく(ヨハネの福音書5章24節)、永遠の栄光の中で生かされているのです(ペテロの手紙 第一 5章10節)。そのことを思って、権力を振りかざして人々をしえたげている人々の救いのために祈ろうではありませんか。