義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。(イザヤ書32章17節)
1.詩篇85篇8節―13節
2.イザヤ書26章12節―13節
3.ローマ人への手紙4章25 節―5章1節
戦争のない平和の世界を人々は願い求めているにも関わらず、あちらこちらで戦争や争いが絶えない原因は、各自の抱えている欲望と自己中心の生き方に原因があることを(ヤコブの手紙4章1節ー4節)、欲と高ぶりに満ちているこの世(ヨハネの手紙 第一2章16節)を愛して生きる、すなわち世と調子を合わせて生きることにあることを語っています。十年ほど前になると思いますが、こどものための夏季集会でこどもたちに「なんで、兄弟ケンカをするのかな?」と質問したとき、ひとりの男の子が「ストレス解消のため」と答えたので、思わずみんな笑ってしまいましたが、こどもでも他者のことを考慮せず自己中心で生きていることをわかっているのではないでしょうか。その時、集会の最後に罪を赦してくださるように主に祈る時も持つことができ、こどもたちは声に出して一緒に祈りました。二年ほど前、青年になった当時の男の子に会う機会があったので、当時のことを覚えているかどうか尋ねると「覚えています。」とニコニコして話してくださいました。イエス様は「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネの福音書14章27節)」と仰せられたように、罪悪感や罪責感はどんなに思考を変えてもまとわりつくものですが、イエス様は罪を取り除くだけでなく、記憶に残っている過去の否定的な出来事さえも十字架で処理してくださったのです。ですから、キリスト者にはこの世が与えることのできない神の義が与えられ神との平和が確立しており、死後、神のさばきに会うことがないばかりか、すでに永遠の滅びから解放され、永遠のいのちが与えられているのです。「我」の上に「羊」が乗って初めて「義」となることを思い起こすとともに、今日の聖句「義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。」を心に据えて、キリスト者が罪に定められないように、信仰がなくならないようにとりなしていてくださる神の義であるイエス様を信頼して生きようではありませんか。