知恵のある者は誉を受け継ぎ、愚かな者は恥を得る。(箴言3章35節)

1.箴言2923
2.ローマ人への手紙228節―29
3.コリント人への手紙 第一4章4節―5節(”称賛”を口語訳は”誉れ”と訳しています)

今日の聖句は「知恵のある者は誉を受け継ぎ、愚かな者は恥を得る。」と、語っていますが、「知恵のある者」と「愚かな者」の定義は、知能指数によるものではなく、詩篇111篇10節が「主を恐れることは、知恵の初め。これを行う人はみな、良い明察を得る。主の誉は永遠に堅く立つ。」と語っているように、知恵があるかどうかは神である主を知っているかどうかによるものであり、「愚か者」とは、詩篇14篇1節や詩篇53篇1節が「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている」と語っているように、神の存在を否定する無神論者であるだけでなく、パウロが「神の見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄を、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。(コリント人への手紙 第一 1章20節―23節)」と、神の存在を認めていても、どんなに人から知者と賞賛されていても、創造者なる神でなく、人の考えや伝統に則って偶像崇拝をしているなら、愚か者であることを語っています。しかも、「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでもしたがわれました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめて、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ人への手紙2章6節―11節)」と、語っているように、主を認めなかったがゆえに恥を見るときが来るのですが、キリスト者にとっては誉を受ける時なのです。世の人々を羨むことなく、かえって創造者なる主を知ることができるように祈ろうではありませんか