私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。(エペソ人への手紙1章3節―4節)

1.エレミヤ書14節―10
2.コリント人への手紙 第一 14節―9
3.コロサイ人への手紙1章15節―22節

ヨハネの福音書1章1節―3節は「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」と、イエス様のことを「ことば」と表現し、すべてはイエス様によって創造されたことを語るだけでなく、ヘブル人への手紙1章3節は「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」と、罪からきよめることができるのはイエス様以外におられないことを語っています。ところで、詩篇49篇7節―9節は「。人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身代金を神に払うことはできない。―たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならないー人はとこしえまでも生きながらえるであろうか。墓を見ないであろうか」と絶望的な状況を語っていますし、箴言20章9節は「だれが、『私は自分の心をきよめた。私は罪からきよめられた。』と言うことができよう。」と問いかけています。確かに人は罪を積み上げながら生きており、過去に戻って罪を消すことはできませんし、すべての人は死に向かって生きていることを思うと「絶望」しかありませんが、神は御子を人としてこの世にお遣わしになり、十字架の刑に服させることによって罪や死の解決を与えられただけでなく、復活をもって永遠のいのちを明らかにしてくださり絶望のかわりに生ける希望を与えてくださったのでした。ですから、キリスト者は「私は罪からきよめられた。」と言えるのです。しかも、今日の聖句は「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」と、驚くべきことに、母の胎内に宿る前、いやそれ以前に世界の基が造られる前に、すでにキリストにあって存在していたことを、しかも天にある霊的祝福を受けることができるように、神に受け入れらる聖さと完全さを与えるために、イエス様は苦しまれ十字架にまで従われたことを心に据えて、主が喜ばれるように生きようではありませんか。