キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、よいわざに熱心なご自分の民をきよめるためです。(テトスの手紙2章14節)
1.ヨハネの福音書17章18節―20節
2.ガラテヤ人への手紙1章1節―5節
3.テトスへの手紙3章3節―8節
「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」と尋ねた金持ちの青年に、イエス様が「なぜ、良いことについてわたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」と、言われると、彼はイエス様が言われた具体的な戒めはすべて守っている、と告げたので、財産を売り払って貧しい人にたちに与えてからイエス様に従うように言いましたが、彼は悲しみながら立ち去ってしまったのでした。イエス様は行い以前の問題を提示しています(マタイの福音書19章16節―17節)。イエス様は「偽善者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇蹟を行ったではありませんか。』しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。(マタイの福音書7章15節―24節 新改訳2017版)」と、行いそのものよりも良い木であるイエス様との関係が不可欠であることを語っています。パウロは「ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。『不法を赦され、罪をおおわれた人たちは幸である。(ローマ人への手紙4章6節―7節)』」と語っていますが、それを可能にしたのを今日の聖句は「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、よいわざに熱心なご自分の民をきよめるためです。」と、十字架の死にまで従われたイエス様を信じることによってのみ可能であることを語っています。「良心」は、良いものと考えがちですが、実はエレミヤ書17章9節は「人の心は何よりも陰険であり直らない。」と語っています。ですからヘブル人への手紙10章22節は十字架の血によってのみ邪悪な良心がきよめられることを語っています。きよい者とされるために支払われた犠牲がいかなるものであるかを心に据えて主が喜ばれるように生きようではありませんか。