私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。(コリント人への手紙 第二 9章6節ー8節)

1.ヨハネの福音書114節―17
2.コリント人への手紙 第二 81節―21
3.エペソ人への手紙3章16節―21節

「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守るべきである」と言ったパリサイ派で信者になった人々と使徒たちと間で激しい論争が起こりましたが、「聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行を避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上」という結論が下されたのでした。興味深いことにそこには献金については言及されていません(使徒の働き15章1節―29節)が、パウロは「さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたの知らせようと思います。苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。」とマケドニヤの教会が貧しくても喜んで献金することができた秘訣は、彼ら自身を主にささげるたことと「神の恵み」にあることを証しされてから「あなたがたは、すべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私から出てあなたがたの間にある愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富むようになってください。」と勧めています(コリント人への手紙 第二8章1節―5節及び7節)。ところで、パウロは「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」とささげる時の注意を促していますが、マラキ書3章10節「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。―万軍の主は仰せられるーわたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたにそそぐかどうかためしてみよ。」をもって、洗礼を受けたら祝福されるから「什一献金をしなさい。」と強いられて捧げたり、祝福されることを目的にささげるようなことをしていないでしょうか。本来、イエス様が経験された苦しみや十字架の刑は私たちが受けるべきものであったこと、イエス様を信じただけで永遠の死、すなわち悪魔や悪霊たちと一緒に昼も夜も永遠に苦しみ続ける地獄からすでに救われ、神の子とされ、将来は死も、悲しみも苦しみもない天国で永遠に生き続けることができる永遠のいのちが与えられている恵みを感謝し、主がどのような方であるかを考えマケドニヤのキリスト者と同じようにささげられる恵みを感謝し、喜びをもって心できめたとおりのおささげものをしようではありませんか。