聖書箇所

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。(エペソ人への手紙1章3節―4節)

<関連聖句>

1.イザヤ書497節―12
2.ヨハネの福音書1516
3.コリント人への手紙 第一126節―31
4.テサロニケへの手紙 第二 2章3節ー13節

<メッセージ>

主はサウル王を恐れていたサムエルに「あなたは群れのうちから一頭の雌の子牛を取り『主にいけにえをささげに行く』と言え。いけにえをささげるときに、エッサイを招け。あなたのなすべきことを、このわたしが教えよう。あなたはわたしのために、わたしがいう人に油をそそげ。」と仰せられたので、サムエルはエッサイとその子どもたちを聖別し、彼らを、いけにえをささげるために招き、彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て「確かに、主の前で油を注がれる者だ」と思いましたが、主は「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」と仰せられたように(サムエル記 第一16章1節―7節)、人と神の選びは必ずしも同じではないのです。人は外見だけでなく、能力や血筋などで選ぶようなことをしますが、エルサレムだけでなく国外の町々にまでも出かけて行ってキリスト者を迫害していたパウロが使徒とされることなど、人の考えでは理解できないことを主はなされるのです。ダビデは洞窟に避難したとき「私のたましいを、牢獄から連れ出し、私があなたの御名に感謝するようにしてください。正しい者たちが私の周りに集まるでしょう。あなたが私に良くしてくださるからです。(詩篇142篇7節)」と祈ると、主はその祈りに応えられ、人々をダビデのもとに導かれましたが、彼の家族だけでなくイザヤ書49章7節が「イスラエルを贖う、その聖なる方、主は、人にさげすまされている者、民に忌み嫌われている者、支配者たちの奴隷に向かってこう仰せられる。『王たちは見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す。主が真実であり、イスラエルの聖なる方があなたを選んだからである。』」と語っているように、「困窮している者、負債のある者、不満のある者たちがダビデのもとに来ましたが(サムエル記 第一22章1節―2節)、やがて彼らはイスラエルを救う勇者になったのでした。今日の聖句「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」を心に据え、キリストを信じる前は、神を知らず、真理を知らず、自我に生き、神の御怒りを受けるべき者であったにも関わらず、御子イエス様をお遣わしくださり、神の御前に聖く傷のない者として立たせてくだるように神に選ばれていることを、霊的祝福が与えられていることを感謝し、いのちのみことばを握り、主が喜ばれるような信仰の歩みをしようではありませんか。