ルカの福音書9章62節
だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさ わしくありません。
<関連聖句>
1.民数記13章17節―14章30節
2.ピリピ人への手紙3章2節―15節
3.ヘブル人への手紙10章1節―18節
<メッセージ>
モーセは約束の地について乳と蜜の流れる地であるなどの詳細を主から与えられていたにもかかわらず「わたしたちより先に人を遣わし、私たちのために、その地を探らせよう。私たちの上って行く道や、入って行く町々について、報告を持ち帰らせよう。(申命記1章22節)」という民の意見に同意し、その地やそこに住んでいる民の様子や町の構成がどんなものであるかを調べるだけでなく、その地のくだものを取ってくるように言って遣わしたのでした。
帰って来ると、モーセには「そこにはまことに乳と蜜が流れています。」と言いながら、ヨシュアとカレブ以外の者は民に「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこので見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」と悪く言いふらしたので、全会衆は大声をあげて叫び、その夜泣き明かしてからモーセとアロンに「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだ方ほうがましだ。なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子はさらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」と、数々の奇跡を体験し、神の偉大さを知っているはずなのに、何かあるとすぐにエジプトの生活を思い起こして不平不満をもらしたので、主は彼らが願ったように、ヨシュアとカレブ以外の20歳以上の民は主が約束された地に入ることがでず荒野で亡くなることにしたのでした(民数記13章1節―14章29節)。
キリスト者は罪やこの世から贖いだされ神の子とされ約束の地、すなわち御国に向かって歩んでいますが、今日の聖句が「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」と語っているように世と調子を合わせて生きていると、ペテロの手紙 第一 2章9節が「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」と語っているような立場と使命を忘れ、神の国にふさわしくない者になってしまうのではないでしょうか。
モーセのように話し下手でのべ伝えるのは無理と思われても、祭司の役目である人々のために祈る務めはキリスト者全員に与えられている特権ですから、人々のために祈り神の国にふさわしい者として主が喜ばれるように生きようではありませんか。