イザヤ書28章16節

神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」

<関連聖句>

1.詩篇31篇19節―24節
2.マタイの福音書7章15節―27節
3.ペテロの手紙 第一 2章4節―9節

<メッセージ>

パウロは「・・義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。

すなわち、信仰による義です。

しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。

なぜでしょうか。

信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです。

彼らは、つまずきの石につまずいたのです。

それは、こう書かれているとおりです。

『見よ。

わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。

彼に信頼する者は、失望させられることがない。』(ローマ人への手紙9章30節―33節)」と、今日の聖句「神である主は、こう仰せられる。

『見よ。

わたしはシオンに一つの石を礎として据える。

これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。

これを信じる者は、あわてることがない。』」を引用し、礎として据えられる石はイエス様であることを語っています。

礎、すなわち礎石は建造物の土台で、柱を支える石で、もし礎石を用いないで建物建てる場合、柱が直接地面に接することになるので、湿気を直接受けることになり、老朽化が早く進んでしまいます。

しかも、建物が消失しても礎石は残ります。

興味深いことに、パウロは私たちの人生の土台はイエス・キリストですが、「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。

というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。

もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。

もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」と、建物が消失しても礎石は残っているのと同じように、イエス様による救いは私たちの行いに左右されないゆるがないものであることを語っているのではないでしょうか。

パウロは多くの試練に会いましたが恵みをむだに受けるようなことはせず(コリント人への手紙 第二 6章1節―10節)、最後まで主を信頼し、キリストを見習って生きられたのでした(コリント人への手紙 第一 11章1節)。

「これを信じる者は、あわてることがない。」「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」というみことばを心に据え、私たちの弱さをよくご存知でとりなしていてくださるだけでなく、すべてのことを益としてくださるイエス様を、信仰の完成者であるイエス様を信頼し、あわてたり失望したりしないように生きようではありませんか。