わたしは光として世に来ました。わたしを信じるものが、だれもやみの中にとどまることのないためです。(ヨハネの福音書12章46節)

1.イザヤ書8章19節―9章7節
2.ヨハネの福音書1章1節―5節
3.ヨハネの福音書8章1節―12節
4.使徒の働き26章9節―20節

創世記1章27節には「神は人をご自分のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」と、創世記2章7節には「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きるものとなった。」と、人に関して語っていますが、創世記2章19節には「神である主は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れてこられた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。」と語っているように、人と他の被造物には大きな違いがあります。神は永遠のお方なのでソロモンは「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。」と語っていますが、「しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」と人には永遠が与えられていても被造物であるがゆえに、理解できない世界があることを語っています(伝道者の書3章11節)。ですから人は死んだ後の事を色々考え、様々な宗教が生み出されたのではないでしょうか。イザヤは「人々があなたに、『霊媒や、さえず理、ささやく口寄せに尋ねよ』と言うとき、民は自分の神に尋ねなければならない。生きている者のために、死人に伺いを立てなければならないのか。(イザヤ書8章19節)」と語ってから、「地を見ると、見よ。苦難とやみ、苦悩と暗やみ、暗黒、追放された者。(イザヤ書8章22節)」と絶望的な事を語ってから「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。・・・やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」と語ってからイエス様の御降誕を語っています(イザヤ書8章1 節―2節及び6節―7節)。イエス様は「わたしは光として世に来ました。わたしを信じるものが、だれもやみの中にとどまることのないためです。」と仰せられたように、パウロはキリスト者を迫害するために向かっていたダマスコの途上で、太陽よりも明るく輝いた天からの光に照らされただけでなく主は「わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なる者とされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。(使徒の働き26章12節―18節)」と仰せられたのでした。キリスト者は罪や死、だけでなくサタンからも解放され主のものとされていることを、やみから光に移され、永遠のいのちが与えられていることを、光の子とされていることを忘れないようにしようではありませんか。