わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。(イザヤ書437節)

1.エレミヤ書181節―6
2.コリント人への手紙第二6節―18
3.エペソ人への手紙21節―10
4.ペテロの手紙第一13節―7

今日の聖句の前句に「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは私のもの。』」と、主が贖われたことを語ってから、「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」と語っています。ところでエレミヤ書184節―6節に「陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。それから私に次のような主のことばがあった。イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。―主の御告げー見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。」と語っています。イエス様を信じたことによって私たちもイスラエルの民同様贖われた者であることを思うと、主が仰せられているように、私たちも神の栄光のために存在するとともに栄光を現す器となえるために、キリスト者は、神の御力によって守られているにも関わらず、信仰の試練に会いますが、イエス様がご自分を一粒の麦に例えられてから「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現してください」と申し上げると、天から「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」と声があったように、復活をもって栄光を現されたように、試練の後で神の栄光が現されることを思って、試練が臨んだ時、この世の人々のように自分を生かすのではなく、キリストに生き、主の栄光を現すためであることを、私が道である、と仰られたイエス様とイエス様の生き方を仰ぎ見て生きるように心がけようではありませんか。