私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさのなかかた、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからです。(ヨハネの福音書116節―17節)

1.サムエル記第二712節―16
2.マタイの福音書910節―17
3.ローマ人への手紙517節―20
4.コリント人への手紙第二36節―18

パウロは「私は八日目の割礼を受け、イスラエルの民族に属し、ベニヤミンの分かれのものです。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところの者です。」と語ってから「しかし、私にとって特であったこのようなものを、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。」(ピリピ人への手紙35 節―7節)と、語っているのは、ヨハネが「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさのなかかた、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからです。」と語っているように。「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのでした。(ローマ人への手紙83節)」と、救いは行いによってではなく恵みよるものであり、その豊かな恵みはキリスト・イエスにおいて神は明らかにされたことを知る者となられ、「律法が入ってきたのは、違反がまし加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ち溢れました。(ローマ人への手紙520節)」と語っています。私たちは、失言したり、後悔するようなことをしてしまいますが、そのようなとき恵の座に出て、いろいろ失敗をしますが、自分を裁くよりも、そのために十字架があることを思い起こし、恵みとまことを実現してくださったイエス様を仰ぎ見て、主からの平安をいただこうではありませんか。