人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。(ルカの福音書19章10節)
1.ルカの福音書5章27節ー32節
2.ルカの福音書15章1節ー32節
3.ヨハネの福音書10章7節ー16節
4.使徒の働き26章2節ー22節
イエス様から「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と声をかけられたザアカイが、急いで降りて来て、大喜びでイエス様を迎えたのを見た人々は「あの方は罪人のところに行って客となられた。」とつぶやきましたが、ザアカイは「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。私がだまし取った物は、四倍にして返します。」と申し上げると、イエス様は「きょう。救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を探して救うために来たのです。」と、人の子、すなわちイエス様が人としてこの世の遣わされた目的を話されました(ルカの福音書19章1節ー19節)。人々とイエス様の会話から、「失われた人」とは、「罪人」を意味することであり、イエス様の使命は罪人を救うことであることがわかります。イエス様は、いなくなった一匹の羊、なくした銀貨一枚や放蕩息子のたとえ話しをもって、ひとりの罪人が悔い改めると天に喜びがわき起こることを話されました(ルカの福音書15章1節ー32節)。パウロはキリスト者になる前も神に対して熱心でしたが自分のうちに罪であることがわからずキリスト者を迫害していましたが、ダマスコへの途上でイエス様の方から声をかけられ、キリスト者となったパウロは、「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」と神の願いを知っただけでなく「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストはすべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。(テモテへの手紙第一2章4節ー6節)」と、救いは一方的な神のお働きであることを語っています。キリスト者は主に捜し出された存在であり、主に喜ばれていることを自覚すると共に、自分では失われている存在であることを、罪人であることをご存知ない世の人々が、偶像崇拝や祖先崇拝から解放され、イエス様を信じて罪に対する罰や神の怒りから救われるようにとりなして祈ろうではありませんか。
