私はいつも主を目の前に置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。(詩篇16篇8節)
1.ヨハネの福音書5章17節ー20節
2.コリント人への手紙第二2章15節ー17節
3.コロサイ人への手紙2章20節ー3章11節
4.ヘブル人への手紙12章2節~3節
ダビデの生涯を見ると、サウルもイスラエルの民も恐れていたゴリアテに「おまえは、剣と、槍と、投げ槍をもって、私に向かって来るが、私は、お前がなぶったイスラエルの先陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。きょう、主はお前を私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人のs陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、いイスラエルに神がおられることを知るであろう。この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」と、全集団、すなわち、ゴリアテを恐れていたサウルやイスラエルの民だけでなくペリシテ人もイスラエルに神がおられること、主が救われること知ることになる、と言って一つの石でゴリアテを倒したのですが、その後、サウルからいのち狙われると、主を信頼するよりも自分の考えでペリシテ人の、しかもゴリアテの出身地ガテにツイケラグに住んでいましたが、ダビデたちが留守にしていた間に略奪隊が町を襲い、町は火で焼かれ全てのものが持ち去らたために部下から石で打ち殺されそうになった時、ダビデは主の前に出て略奪隊を追うべきかどうかを伺ったのでした。主が追いつくことができ、必ず救うことができる、と約束されたようにすべてを取り戻すことができただけでなく、略奪隊がペリシテ人の地やユダの地から奪っていたものまでも得たのでした。ダビデは「私はいつも主を目の前に置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」と証ししています。死からよみがえられた主は父の右に座して私たちが罪に定められないように取りなして守っていて下るように(ローマ人への手紙8章24節)、「右」は守りを意味します。私たちもダビデのように自分の考えで行動して失敗するようなことがありますが、今日の聖句を思い起こして右往左往するのではなく、ゆるがない人生を歩むために主がいつも共におられることを感謝し、主を信頼して生きようではありませんか。
