わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。(マタイの福音書5章17節ー18節)
1.マタイの福音書22章23節ー40節
2.使徒の働き15章1節ー29節
3. ローマ人への手紙10章1節ー13節
4.ガラテヤ人への手紙3章8節ー14節
イエス様は「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」とご自身が律法の全てを成就されることを話されてから、「だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」と話されると共に「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」と警告されたのでした。ところで、イエス様は道の途中で生まれつき盲人をご覧になられ、つばきで泥を作られ、その泥を盲人の目に塗ってからシロアムの池で洗うように仰せられると見えるようになったのですが、それが安息日であったために「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ」とパリサイ人のある人々は言い、一方「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができよう。」という人もおられてパリサイ人の間に分裂が起きたように(ヨハネの福音書9章1節ー16節)、イエス様はよく安息日に人を癒されましたし、麦畑の中で弟子たちが道々穂を摘み始めたのが安息日だったにもかかわらず注意することをされなかったので、パリサイ人たちが「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。」と尋ねると、イエス様はダビデのことを例にあげてから「安息日は人間のために授けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は、安息日にも主です。」と仰せられ、安息日に関する解釈の違いを指摘されたのでした(マルコの福音書2章23節ー28節)。神は人が律法を完全に守ることができない弱さをご存知で御子イエス様を人としてお遣わしになり、律法を終わらせてくださり、律法ののろいから贖い出してくださっただけでなく(ガラテヤ人への手紙3章13節)、罪に定められないようにとりなして祈っていてくださることを忘れずに、たとえ自分の心が責めても、神の安息の中で生きるようにしてくださったのでした(ヨハネの手紙第一3章18節ー20節)。行いによってではなく恵みによって救われていることを感謝しようではありませんか。