神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。(ヨハネの手紙第一5章3節)

1.詩篇19篇7節ー11節
2. マタイの福音書11章28節ー30節
3.ヨハネの福音書14章15節ー27節
4.使徒の働き20章28節ー32節

今日の聖句は「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」と、神を愛しているのかどうかは神の命令、すなわちみことばを行なっているかどうかによって明らかにされることを語るとともに、みことばは重荷にはならない、と語っています。イエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎがきます。(マタイの福音書11章28節ー29節)」と、過去の失敗や将来に対して思い悩んで心が疲れていたり、重荷、すなわち負担に思うことを抱え続けているなら、それらすべてを主に申し上げるだけでなく主の手に明け渡し、わたしのくびき、すなわちイエス様とともに歩んでいることを、イエス様が教え導いていてくださることに心を留めてイエス様に従って生きるら、この世が与えることのできない平安が与えられることを約束してくださっているのではないでしょうか。パウロは二度と会うことができないと思われたエペソの教会の長老たちに「いま私は、あなたがたを神と恵みにみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。(使徒の働き20章32節)」と語っています。神の命令、すなわちみことばは恵みに満ちているために今日の聖句は重荷にならない、と語っているのではないでしょうか。みことばが重荷に思う時にはパウロが「肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。(ローマ人への手紙8章7節)」と語っているように、「みことばはそう言っていても・・・」、と、神よりも自分を愛し、自分の思いに支配されてみことばに対する不信感をもっている時、みことばが重荷になってしまうのではないでしょうか。イエス様が「わたしにとどまりなさい。」と仰せられていることを思い起こし、いつも主に立ち返り、豊かないのちを、慰めを与えてくださる恵みのみことばに生き続けようではありませんか。