私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(ヨハネの手紙第一4章10節)

1.ルカの福音書23章13節ー43節
2.ヨハネの福音書19章14節ー30節
3.ローマ人への手紙5章6節ー11節
4.コリント人への手紙第一13章4節ー13節

サウロとも呼ばれていたパウロは律法による自分の義に生きていた時には神に対して熱心であっても、神の愛を知らずに自分の考えでナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えて多くの聖徒たちを牢に入れ、彼らが殺されるときには、それに賛成の票を投じるようなことをしていたのですが、キリスト者を迫害するために向かっていたダマスコの途上でイエス様から「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」と声かけられ、自分の考えが間違っていたことに気づかされただけでなく、キリストに仕える奉仕者、また証人としての使命が与えられ、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する自身の愛を明らかにしております。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われのは、なおさらのことです。(ローマ人への手紙5章8節ー9節)」と語っているように、またキリスト・イエスにある神の愛からキリスト者を引き離すことができるものは何もないことを確信され(ローマ人への手紙8章38節ー39節)、神の愛を知る者となり、彼の人生は大きく変わったのでした。(使徒の働き26章9節ー20節)。今日の金曜日はイエス様が苦しめtられ、人々からあざけられ、ののしられ、十字架にかけられた日を思い起こす日です。今日の聖句が「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」と語っているように、神に愛されていることを、神の愛がどのようなものであるのかを深く考えようではありませんか。