信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果てないためです。(ヘブル人への手紙12章2節ー3節)
1.ヤコブの手紙1章2節ー4節
2.ヤコブの手紙5章6節ー11節
3. ペテロの手紙第一1章3節ー9節
4.ペテロの手紙第一4章12節ー19節
聖書は、聖霊に満たされたイエス様が、ペテロがサタンの試みに会われたように、サタンは人を試みるものであることを語っています。ですから、地を行き巡ってきたサタンに「 おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」と仰られると、サタンはヨブが神を恐れているのは主が祝福されているからであって、彼のすべての持ち物を打つなら、主に向かってのろうに違いない、と確信をもって答えたので、主はサタンが彼を試みることを許されたのでした。そのため、サタンはヨブの妻には手を出しませんでしたが、シェバ人を使って家畜を奪わせ、自然災害をもってヨブの家畜や若者たち、子どもたちまでも死に追いやっても、ヨブ自身がサタンの試みにあっても、三人の友人たちから非難を受けても、主をのろうようなことせず、かえって主を信頼して信仰に立たれたのでした(ヨブ記16章19節ー21節)。その結果、主はヨブが友のためにとりなすように仰せられ、彼が友のためにとりなされると、主は二倍の祝福を与えられたのでした(ヨブ記42章7節ー10節)。今日の聖句は「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」と勧めてから「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」と、語ってから、「あなたがたは罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果てないためです。」と勧めています。主は父なる神が死から救われることを信じ(ヘブル人への手紙5章7節ー9節)、十字架の死があってこそ復活があり、それは死に勝利することであることをご存知であったために苦しみの中にも喜びを持たれたのではないでしょうか。試練に会っている最中は理解し難い思いで苦しいものですが、今日の聖句が勧めているように、イエス様のことを考えて主の大きなご計画の一コマであることを信仰をもって受け止めようではありませんか。