主の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている。(箴言15章3節)

1.エゼキエル書18章1節ー32節
2.ヨブ記1章6節―8節
3.使徒の働き10章1節―47節
4.使徒の働き26章1節ー23節

主はサムエルに「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。(サムエル記第一16章7節)」と仰せられたように、ハンナが主の前で心のうちを祈っていたのですが、くちびるが動くだけで、その声が聞こえなかったので、祭司エリは、酔っているのかと思い「いつまで酔っているのか。目をさましなさい。」と言ったように、人はうわべを見て、想像力を働かせて間違った判断をしやすいのではないでしょうか。王として油を注がれたダビデは「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそ私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。」と主は行動だけでなく、人の目には見えない思いをもご存じであることを語っただけでなく、「たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。たとい私が『おお、やみよ。わたしをおおえ、私の回りの光よ。夜となれ』と言ってもあなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光と同じことです。(詩篇139篇1節―2節及び8節―12節)」、と主は偏在の方であることを告白されましたが、主は教会を迫害していたパウロのように、悪者が態度を悔い改めて生きることを願っておられるだけでなく(エゼキエル書18章23節)、コルネリオのように善人もキリストを知り救われるようにペテロを遣わされたようにキリスト者を遣わされるのではないでしょうか(使徒の働き10章1節―20節)。主の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っておられるのは、すべての人が救われて真理を知ってほしいという主の願いが根底にあることを心に据えて人々の救いのために祈ろうではありませんか(テモテへの手紙第一2章1節―6節)。