神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(コリント人への手紙第一5章21節)
1.ローマ人への手紙1章16節―17節
2.ローマ人への手紙3章19節ー26節
3.コリント人への手紙第一1章18節―20節
4.ピリピ人への手紙3章2節―9節
イエス様は「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。(マタイの福音書5章20節)」と仰せられました。パリサイ人であった時のパウロは律法による自分の義に生き、自分の考えでナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきと考えてキリスト者を迫害していたのですが、キリスト者になった彼はキリストを信じる信仰に基づいて神から与えられる神の義を知る者となり、迫害される者となったのでしたが、彼の願いは神の義を知らない同胞が救われることでした(ローマ人への手紙10章1節―3節)。人の義は他者と自分を比較しするために高ぶりをともなうものであり神に認められないものであることをイエス様はパリサイ人の祈りと取税人の祈りのたとえ話をもって話されました(ルカの福音書18章9節―14節)。ところで、パウロは「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」と、イエス様にあって初めて神の義になることができることを語っています。興味深いことに「義」は「羊」と「我」しかも「我」の上に「羊」が乗っているのです。ですから、どんなに頑張っても罪を取り除いてくださる神の小羊であるイエス様なしには「我」で生きており、義にはなれないことがわかるのではないでしょうか。キリスト者であっても他者と自分を比較し、自分の義に生きてしまいがちになりやすいものですが、神の義とされるために支払われた犠牲を忘れずに生きようではありませんか。