祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。(伝道者の書7章2節)

1.詩篇116篇1節―15節
2.ヨハネの福音書11章21節―45節
3.コリント人への手紙第一15章3節―22節及び50節―57節
4.ペテロの手紙第一1章3節―9節

8月24日、敬愛していた牧師先生の葬儀に参列させていただきましたし、今日も葬儀に参列いたします。24日の葬儀の司式は御子息の牧師先生がなされ、お父様のことをとても尊敬されておられることがよくわかりましたが、「父が愛に満ち溢れて生きられたのは、イエス様を信じたからです。」と、イエス様のことを強調して話され、やがて天でお父様にお会いできるという希望をも証しされました。その希望はイエス様の復活によってゆるがないものとなっているからです(ヨハネの福音書11章25節、ペテロの手紙第一1章3節)。一時「死への備え」ということが話題になったことがあります。一般的に、残りの生涯を悔いのないように過ごすことが死への備えのように考えがちですが、真の死への備えはイエス様を信じ、永遠のいのちに生きることではないでしょうか。親しい女性の牧師先生から、お年をめして手術が不可能な姉妹に、主治医が「今度発作が起きたら助からないかも知れません。」と告げると、その姉妹は「そんな嬉しいことはありません。私はその時、天国でイエス様にお会いしずっと一緒に生きられるのですから。」と、顔を輝かせて喜ばれたことに医師が驚かれたそうです。先生は、長い信仰生活の賜物ですね、と話してくださいました。ソロモンは「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。」と、祝宴の家に行かないように語っているのではなく、祝宴の家では人々は深いことを考えず楽しみますが、喪中の家において、人は必ず死ぬこと、死後どうなるのか、と死について、いのちについて人にとって一番大切なことに思いを巡らすからではないでしょうか。キリスト教の葬儀に参列された未信者の方が自分の葬儀はキリスト教でしてほしい、とか、感動してキリスト者になる方もおられます。復活の主を喜んで礼拝をささげ、まことの死への備えはキリストにあることを多くの方が知るように、イエス様を信じていない家族や友人がイエス様を信じるように、福音宣教の働きが祝されるように祈ろうではありませんか。