信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(ヘブル人への手紙11章6節)
1.詩篇22篇23節―24節
2.ローマ人への手紙1章16節ー25節
3.ヤコブの手紙5章13節―18節
4.ペテロの手紙第一1章18節ー21節
人は神によって創造されたため無意識のうちに神を知っているからでしょうか、何かあると「神」ということばを口にするのではないでしょうか。しかし、残念なことに、また、不思議なことに、有識者であっても、目があっても見えず、足があっても歩けず、安置されたところから動けないような像を拝むことを信仰と考えてしまうのではないでしょうか(ローマ人への手紙1章20節ー23節)。パウロはアテネの町が偶像で満ちているのを見て「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。(使徒の働き17章16節―22節)」と、信仰ではなく宗教心と言われたのでした。イエス様は長血を十二年もわずらっていた女性に「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と仰せられましたが、彼女はイエス様のことを耳にして「お着物にでもさわることでもできれば、きっと直る」と考え、信じてイエス様の着物にさわった結果いやしが起こったように(マルコの福音書5章25節ー34節)、パウロが「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(ローマ人への手紙10章17節)」と語っているように、信仰はイエス様がどのような方であるかを知ることによって生まれることがわかります。今日の聖句「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」を心に据えて、不信仰に陥らないように、ヘブル人への手紙12章12節が「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」と勧めているように、長血をわずらっていた女性のように、信仰を与え、完成させてくださるイエス様を「この方なら」と信じるとともに、そのイエス様が聖霊なる神として内住しておられるのでいつもともにおられることを感謝し、罪人を救うためにイエス様をお遣わしになり死からよみがえらされた父なる神をも信じ、神が喜ばれるように生きようではありませんか。