わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。(ヨハネの福音書15章4節)

1.ルカの福音書6章39節―45節
2.コリント人への手紙第一13章4 節―13節
3. ガラテヤ人への手紙5章16節―24節
4.ヘブル人への手紙12章5節―8節

一般的に、実を結ぶとは、努力しただけの十分な結果や成果が得られること、すなわち成功をすることを意味するのではないでしょうか。しかし、ソロモンは「私は再び、日の下を見たが、競争は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではなく、またパンは知恵ある人のものではなく、また富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではないことがわかった。すべての人が時と機会に出会うからだ。(伝道者の書9章11節)」と日の下、すなわちこの世には保障がないことを語っていますが、羽生結弦さんが、多くの成果を残しながらも、北京五輪で四位に終わった結果を見て「一生懸命頑張りました。正直、これ以上ないくらい頑張ったと思います。報われない努力だったかもしれないですけど。」と、朝日テレビで松岡修造さんに「努力って報われないなって思いました。」と涙ながらに語っておられたことを思い起こします。ところで、イエス様は「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」としかもその実はいつまでも残るものであることをも話されましたが(ヨハネの福音書15章16節)、パウロが「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。(コリント人への手紙第一13章13節)」と語っているようにいつまでも残る実は愛(アガぺ=神の愛)ですが、その愛はイエス様を信じることによって与えられる聖霊によって心に注がれるため(ローマ人への手紙5章5節)、努力によって得られるものではないものです。ですから、キリスト者には神の愛が与えられているのですが、その愛に生き続けるために、ペテロのために信仰がなくならないように祈られただけでなく、罪人の手によって十字架にかけられながらも「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と、祈られたイエス様にとどまる、すなわちイエス様のことをいつも思って生きるようにしようではありませんか。