「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。(テモテへの手紙第一1章15節)

1.エゼキエル書18章19節―32節
2.マタイの福音書9章10節―13節
3.マルコの福音書2章13節―17節
4.ルカの福音書19章1節―10節

パリサイ人として生きていた時のパウロは聖霊を持たず、キリストを信じる信仰によって与えられる神の義を知らずに、律法による自分の義に生き、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えてエルサレムだけでなく、国外の町々にまでも行き、キリスト者を迫害していたのですが、キリスト者になった彼は自分の内に罪があることを気づかされ、だれも自分を誇ることのないように、行いではなく、恵みとまことを実現されたイエス様を信じることによって救いは与えられることを強調され(エペソ人への手紙2章8節―9節)、「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」と、みことばをすなおに受け入れるように勧めるとともに、かつては神を汚す者、キリスト者を、教会を迫害していたために、ご自分のことを「罪人のかしら」と告白されたのは、そのような者でも救われることを証しさたのではないでしょうか。罪人は裁かれ有罪判決を受け、刑に服する立場にありますが、神は罪人を救うために御子イエス様を人としてこの世にお遣わしになられ、十字架の死をもって罪や死、神の怒りからも救われる道を、神の愛を示されたのでした。聖書はすべての人は罪を犯していることを語っているのにもかかわらず(ローマ人への手紙3章23節)、イザヤ書43章1節に4節の「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」は、贖われているがゆえであることを語っているにもかかわらず、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」だけに焦点を合わせて、人がどんなに価値ある者であるかを知らせるためにイエス様は来られた、というような見解をお持ちの方がおられるようです。イエス様が来られた目的を履き違えないようにしようではありませんか。