だれもふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(マタイの福音書6章24節)
1.申命記8章11節―18節
2.マタイの福音書4章1節―10節
3.ローマ人への手紙 16章17節―20節
4.テモテへの手紙第一6章9節―11節
神がソロモンに「あなたに何を与えようか。願え。」と仰せられると、彼は神を愛していたので、自分のために長寿や富、敵のいのちを求めたのではなく、正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、神は知恵の心と判断する心だけでなく、彼が願わなかった富や誉をも与えることを約束されたのでした。ですから、富や誉そのものが問題なのではなく、イエス様が「だれもふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」と仰せられたように、神よりも富を愛し、富が神のような存在になってしまうことを問題視されたのでした。悪魔はイエス様を非常に高い山に連れて行き、この世の栄華を見せて「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」と言って試みましたが、イエス様は「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」とみことばをもって対処されたのでした。イエス様は人々に「どんな貪欲にも注意してよく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でもその人のいのちは財産にあえるのではないからです。(ルカの福音書12章15節)」と仰せられました。毎年、税収以外に純金23トンもの収益を得ていたソロモンは「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまたむなしい。」と語っています。この世に生きている限り、お金は必要ですが、欲に支配されると、満ち足りた心を失ってしまうのではないでしょうか。父から愛されていることを知っておられたがゆえに、罪人を救うために十字架の死にまで従順に従われたイエスにならって、神に愛されていることを心に据えて、何よりも神を愛し、神が喜ばれるように生きようではありませんか。