なぜ、国々は言うのか。「彼らの神は、いったいどこにいるのか」と。私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行われる。(詩篇115篇2節―3節)

1.イザヤ書55章6節―11節
2.マタイの福音書6章7節―9節
3.マタイの福音書7章7節―11節
4.ローマ人への手紙8章28節―34節

イスラエルの民は多くの奇蹟を体験し、神の力がどんな偉大なものであるのかを、神を知っていたはずなのに、モーセが山から降りてくるのに手間取っているのを見た民は、アロンに「さあ、私たちに先だって行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」と言うと、驚くべきことに、アロンは民に金のイヤリングを持って来るように言い、その金で子牛を造り「イスラエルよ。これがあなたがたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」などと言って、その子牛の前に祭壇を築いて偶像崇拝を行ったように、神は天におられて目に見えないために、神ではなくモーセを見ていた民のように、人々は自分たちの考えで、滅ぶべき人間やさまざまな被造物の像を造って、それを神として拝み、それを敬虔なことと思いますが、彼らが神としているすべての被造物は神によって創造されたものであることに気づかないことにもあるのではないでしょうか。ところで、今日の聖句は「なぜ、国々は言うのか。『彼らの神は、いったいどこにいるのか』と。私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行われる。」と、人の手によって造られた神々は安置された場所から動くこともできませんが、パウロが「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。(テモテへの手紙第一2章4節)」と語っているように、天におられる私たちの神は御子イエス様を人としてこの世にお遣わしになり、神を真理を説き明かされただけでなく、十字架の死をもって救いの道を開かれ、神の願いを成就されたのでした。主がお教えくださったように、天を仰ぎ見て、主の祈りを礼拝の時だけでなく日々祈るようにしようではありませんか。