どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。(エペソ人への手紙3章16節)
1.コリント人への手紙第二11章16節―30節
2.コリント人への手紙第二12章1節―10節
3.ピリピ人への手紙第4章12節―13節
4.コロサイ人への手紙1章3節ー12節
今日の聖句「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」はパウロの祈りです。パリサイ人として生きていた時には聖霊を持っていなかったために、自分の内に罪があることに気づかずにキリスト者を迫害していたのですが、キリスト者となったパウロは自分の内に罪があることを悟り「私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくださるのでしょうか。」と心の葛藤を、自分の弱さを告白するとともに、「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」と、十字架の死をもって示された神の愛の強さを語っています。パウロは三度もいやしを求めましたが、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」という主のことばを聞いて、「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」と、弱さの中にこそ主が力強く働かれることを、いやされないのは高ぶらないためである、ということをも理解したのでした。弱さを覚える時、弱さを嘆くのではなく、パウロは弱く恐れおののいていた時、イエス様のほかは何も知らないように決心されたのでした(コリント人への手紙第一2章2節―3節)。みことばに生きるために、人として遣わされ、私たちと同じように弱さを味わわれた主を、内なる人を強めてくださる主を仰ぎ見て生きようではありませんか。