主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。(詩篇139篇1節)
1.エレミヤ書17章9節―10節
2.ルカの福音書19章1節―10節
3.ヨハネの福音書10章11節―14節
4.ヨハネの福音書21章15節―19節
主は、サムエルに「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」と、仰せられたように人の評価と神の評価の違いを語られました。確かにパウロが、キリストに仕えないで、自分の欲に仕えている人たちは「なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心を騙しているのです。(ローマ人への手紙16章18節)」と、ダビデが、偽りを好み、口では祝福しても心の中ではのろうような人がいることを語っているように(詩篇62篇4節)、人は他者の心を見ることができませんので、だまされてしまったり評価を誤ってしまうようなことがあるのではないでしょうか。しかし、今日の聖句が「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。」と語っているように、イエス様は、すべての人を知っておられただけでなく人のうちにあるものも知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされない方です(ヨハネの福音書2章24節―25節)。イエス様は、イエス様を見るために木に登った取税人の頭で金持ちでしたが、人々からは罪人と言われていたザアカイに「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしたから。」と仰せられました。自分の名前を知っておられただけでなく、宿泊されることを聞いたザアカイは大喜びでイエス様を迎え入れただけでなく、自分の財の半分を貧しい人々に施すことやだまし取った物は四倍にして返すことを話され、悔い改めの実を示したのでした(ルカの福音書19章1節―8節)。イエス様はペテロがどのような弱さを持っているかもご存知でありながら、教会を建てる使命を、御国の鍵を与えられただけでなく、彼の信仰がなくならないように祈られたのでした(マタイの福音書16章18節―19節、ルカの福音書22章32節)。ザアカイのように、主に知られていることを喜んで生きようではありませんか。