私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。(テモテへの手紙第二2章8節)

1.コリント人への手紙第一2章1節―5節
2.ヘブル人への手紙4章13節―16節
3.ヘブル人への手紙5章7節―10節
4.ヘブル人への手紙12章2節―4節

パウロはテモテに「あなたの知っているとおり、アジアにいる人々はみな、私を離れて行きました。その中には、フゲロとヘルモゲネがいます。」と語る一方、パウロを元気づけてくださったオネシボロの家族がいたことを話されてから「そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。」と勧めるとともに「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。」と語っていますが、苦しみに耐えるための秘訣として「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」と勧めています。イエス様は、十字架にかけられる前、すでにむちで打たれていたのですが、当時ローマ帝国が使っていた「むち」は棒の先に革ひもが何本かくくり付けられ、その先端にはなまりなどの金属が付けられていてそれで背中を打つと激痛だけでなく背中もずたずたにされてしまうほどのものでしたので、イエス様の両側につけられた犯罪人たちよりもひどい状態であったのですが、そのような状態にありながらも人々のためにとりなして祈られ恵みとまことを実現されたのでした。苦難の中で、だれも理解してくれないと思いがちですが、パウロが「ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」と、ヘブル人への手紙12章2節―3節が「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」と、勧めているように、イエス様が味わわれた苦しみや孤独がどれほどのものであったかを思い起こそうではありませんか。