私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。(ハバクク3章19節)
1.詩篇18篇30節―33節
2.ローマ人への手紙13章11節―12節
3. エペソ人への手紙4章4節―10節
4.エペソ人への手紙6章10節―20節
サウルからいのちを狙われていたダビデは「主は、私の強い敵と、私を憎む者とから私を救い出された。彼らは私より強かったから。」と語ってから「まことに、主のほかにだれが神であろうか。私たちの神のほかにだれが神であろうか。この神こそ、私の力強いとりで、私の道を完全に探り出される。彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。」と今日の聖句「私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。」と同じように、神がどのような方であり、どのようなことをしてくださるかを語っています。ところで、パウロは、イエス様を信じることによって、キリスト者はこの世に生きていも、神の慈愛とイエス様によって実現した恵みによって(ヨハネの福音書1章17節)、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました(エペソ人への手紙2章1節―9節)と、また「ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、召された者にとってはキリストは神の力、神の知恵なのです。」とも語っておりますし、ヨハネは「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の子と信じる者ではありませんか。(ヨハネの福音書第一5章5節)」と語っています。勝利者のみが高い所に立つことができるのではないでしょうか。今日の聖句は「私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。」と一時的な勝利ではなく勝利の中を歩み続けることができることを語っています。ところで創世記49章21節に「ナフタリは放たれた雌鹿」と、申命記 33章23節に「ナフタリは恵みに満ち足り、主の祝福に満たされている。」とあります。ですから、神の民を「雌鹿」と語っていますが、キリスト者も神の民ですから、雌鹿とされているのではないでしょうか。私の主、と告白する、すなわち聖霊が与えられていることを、キリストによって勝利者とされていることを忘れないで神の力、神の知恵に生きるためにキリストにある者として生きるようにしようではありませんか。