あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。(ローマ人への手紙8章15節)

1.マタイの福音書6章5節ー13節
2.ヨハネの福音書3章1節ー7節
3.コリント人への手紙第一2章7節ー12節
4.ガラテヤ人への手紙3章23節ー4章7節

アダムは「善悪の知識の木から取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と神の警告を直接聞いていながらも、悪魔のいつわりのことばを信じて神が禁じた善悪の知識の木から取って食べたエバの声に従って食べたことによって、確かに目が開けて自分たちが裸であることに気がつきましたが、その一方で神である主の声を聞くと、恐れて園の木の間に隠れたように、罪を犯したことによって恐れが人類に入っただけでなく、パウロがキリスト者になる前の状態について「あなたがたは自分の罪禍と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」と、空中の権威を持ち世全体を支配している悪魔に支配されていたのですが、キリスト者には「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます。」と、恐れをもたらす奴隷の霊であるこの世の霊ではなく、神の子とされていることを証してくださる御霊が与えられているために神を「アバ、父」と呼ぶことができること語っています。パウロは「どんなときにも御霊によって祈りなさい。絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」と勧めていますが、御霊によって祈ることは、「アバ、父」、すなわち主が教えて下さったように「天にいます私たちの父よ。」と、まず神との関係を認識することではないでしょうか。その上で、私たちの父である神がどんな偉大な方であるかを、すべての聖徒は神の子とされているだけでなく十字架の血による血縁関係にある家族であることを心に据えてパウロが勧めているようにお互いに祈ろうではありませんか。