いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。(ピリピ人への手紙4章4節)

1.ネヘミヤ記8章1節ー12節
2.詩篇68篇3節ー4節
3.テサロニケへの手紙第一5章16節ー18節
4.ペテロの手紙第一4章12節―14節

主はダビデに「わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵み(英訳:愛)をサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。(サムエル記第二7章14節―15節)」と、仰せられたように、罪を犯すと試練に会いますが、その一方、ヤコブの手紙1章2節―4節が「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」と信仰の試練がもたらす結果を語っています。潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっているようなヨブがサタンの試みを受けましたが、信仰が深まるためでした(ヨブ記42章5節)。バビロン捕囚から帰った民とエルサレムの城壁を再建したネヘミヤは律法のことばを聞いて泣いていた民に「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ(口語訳:主を喜ぶことは、あなたがたの力であるから。)」と勧めています。パウロは「最後に、私たしの兄弟たち、主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私に煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。(ピリピ人への手紙3章1節)」と語っています。過ちや罪を悔いるような時、その過ちや罪はすでに十字架で支払われていることを、私たちの行いによって神の愛が左右されることのないことを心に据えて、パウロの「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」という勧めに従って生活するために、十字架で示された神の愛と恵みの中に生かされていることを忘れないようにしようではありませんか。