主を恐れることは、知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。(箴言9章10節)

1.箴言3章5節ー7節
2.詩篇111篇1節ー10節
3.コリンと人への手紙第一1章18節ー25節
4.コリンと人への手紙第一2章3節ー10節

ヤコブ手紙3章14節―17節には「もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば誇ってはいけません。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」と二種類の知恵があることを語っています。今日の聖句は「主を恐れることは、知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」と、上からの知恵、すなわち神から与えられる知恵は主を恐れる、すなわち神がどんな偉大な方であるかを思い畏敬の念を持つことによって初めて得られるものであり、悟りとは、自分の経験や自分の考えから割り出した結果に基づいて物事を判断するようなものでも、修行を積むことによって得られるようなものではなく、「聖なる方を知ること」と語っています。ペテロの手紙第一1章15節が「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。」と語っているように、「聖なる方」とは、恵みとまことに満ちておられるイエス様であり、イエス様を知ることが悟りであると語っています。ですから、パウロは「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストのことを、いつも思っていなさい。(テモテへの手紙第二2章8節)」と勧めているのではないでしょうか。パウロは、永遠のいのちが与えられていることを、神はどんなことでも益としてくださる方であることを知っておられ、キリスト・イエスにある神の愛からキリスト者を引き離すものは何もないと言う確信を持っていたので(ローマ人への手紙6章23節、8章28節及び38節―39節)、どんな苦難の中にあっても、獄中にあっても「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。(ピリピ人への手紙4章4節)」と人々に勧めることができたのではないでしょうか。どんな時にも主が共におられることを忘れずに生活しようではありませんか。