イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネの福音書8章12節)

1.ヨハネの福音書11節―5
2.使徒の働き269節―18
3.エペソ人への手紙58節―18
4.コロサイ人への手紙1章3節―14節

創世記1章1節―3節に「初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった。」と、まず神が最初に発せられたことばは「光あれ。」であり、そして、光があってからさまざまな被造物を創造されたことを創世記1章は語っています。一方ヨハネの福音書1章1節―5節は「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものはこの方によって造られた。造られたもので、この方によらないものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」と創世記にみられる創造のわざはイエス様によるものであるだけでなく、イエス様が「わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネの福音書16章33節)」と、人の光であるイエス様は世全体を支配しているやみの力である悪魔に勝利されていたことを語っています。太陽の光がなかったなら生命維持が困難なように、パウロは人が罪や死、やみの力を持つ悪魔の支配から救われて生きるためにはイエス様が必要であることを語っています(エペソ人への手紙2章1節―9節)。今日の聖句は「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」と、「わたしに従う者」すなわち、キリスト者はいのちの光を持っていることを語っています。主に従ったペテロは、悪魔の試みにあってイエス様を三度知らないと言ってしまったのですが、そのことを事前にご存知であったイエス様は彼の信仰がなくならないようにとりなされ、教会を建てあげるという使命を彼から取りあげることもしませんでした。聖霊に満たされたペテロは二度とイエスさまを否定するようなことをせず、かえって大胆に福音を語ったのでした。私たちも一時的に悪魔の策略に陥って光を見失ってしまうようなことがありますが、主がとりなしていてくださるだけでなく、御霊が恵みの御座にお導きくださり、人のいのちの光であるキリストに立ち返るようにしてくださることを感謝して生きようではありませんか。