あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。(コリント人への手紙第一6章20節)

1.イザヤ書431節―7
2.ローマ人への手紙827節―30
3.コリント人への手紙第二36節―18
4.ピリピ人への手紙214節―16

イエス様は「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。(ヨハネの福音書6章63節)」と仰せられました。ですから、パウロは「私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。(コリント人への手紙第二2章17節)」と語っているのではないでしょうか。私たちの属する教団はスウェーデンのオレブロミッションですが、フィンランドのヘルシンキには教団の教会がないので、アメリカから遣わされたシャラー牧師が開拓された教会に集っていました。当時フィンランドはリヴァイヴァルでしたが、それは一つの教会や一つの町ではなく、教団教派を越え聖霊がフィンランド全土を覆っており、使徒の働きに見られるような聖霊の働きがありました。シャラー牧師の「キリスト教界にも良書と言われる本がたくさんありますが、いのちを与えることができるのは、みことば以外にありませんよ。」ということばは今でも忘れられません。ある時、その教会のひとりの姉妹が私に「教会に来られた人がみんな輝いて美しくなりますね。」と言われました。確かに暗く顔を伏せて礼拝に来られていた方々がいつのまにか輝いた顔に変えられていたのですが、それはまさに御霊の働きであったことを思います。ロマー人への手紙8章30節にキリスト者にはすでに栄光が与えられていることを語っていますが、それは贖いがあってのことであることを忘れずに(イザヤ書43章1節ー7 節)、今日の聖句が「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」と語っているように、この世が与えることができない、永遠の栄光である神の栄光を現すことができるのはキリスト者以外にいないことを、どれほどの代価が支払われたかを忘れずに、神の栄光を曇らせてしまうような自我に生きて、聖霊を悲しませたり、消したりしないように、混ぜ物をしない、すなわちこの世の言い伝えや人の知恵である心理学による聖書解釈ではなく、純粋ないのちのみことばを握って生きようではありませんか。(ピリピ人への手紙2章16節)。