人に思慮があれば、怒りを遅くする。その人の光栄は、そむきを赦すことである。(口語訳:悟りは人に怒りを忍ばせる、あやまちをゆるすのは人の誉である。)(箴言19章11節)
1.詩篇37篇1節―8節
2.エペソ人への手紙4章26節―32節
3.コロサイ人への手紙3章2節―13節
4.ヤコブの手紙1章12節―21節
人が怒りを発する理由はさまざまです。「自分こそ正しい」と考えていると、視野が狭くなり自分の考えに添わないと怒りを引き起こすでしょうし、間違いや弱点を指摘されると、それを認めるよりも、かえって怒りがわいてくるように、怒りの根本的な問題は「自分に生きていること」「プライド」にあるのではないでしょうか。イエス様が真理を語っているにもかかわらず、自分を義人だと自任し、他者を見下すような生き方をしていた律法学者やパリサイ人は、イエス様を敵視し、ことばのわなを仕掛けたり、人々を先導して十字架の刑に服させて殺すようなことをしましたが、イエス様は「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と人々のためにとりなされたのでした(ルカの福音書23章34節)。真実を語ったステパノに対し、人々はらわたが煮え返る思いでステパノに向かって歯ぎしりをし、ステパノが「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」と言うと、人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到し、彼を町の外に追い出して石で打ち殺すようなことをしたのですが、ステパノは「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」とひざまずいて大声で人々のためにとりなされたのでした(使徒の働き7章54節―60節)。ステパノが怒らずに、とりなすことができた秘訣を、今日の聖句「人に思慮があれば、怒りを遅くする。その人の光栄は、そむきを赦すことである。(口語訳:悟りは人に怒りを忍ばせる、あやまちをゆるすのは人の誉である。)」に見ることができるのではないでしょうか。「思慮」「悟り」は、神がどのような方であるかを、自分の全生涯の罪が赦されていること、主はすべてご存知であること、主の祈りの「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。」を思い起こして、主が赦してくださったように赦す心をもって生きるようにしようではありませんか。