律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。(ローマ人への手紙5章20節)

1.ヨハネの福音書114節―17
2.ローマ人への手紙3章19節―26節
3.エペソ人への手紙13節―7
4.ヘブル人への手紙4章14節―16節

パリサイ人として生きていた時のパウロは自分の考えに従ってキリスト者を迫害していたように、自分こそ正しいという思いで生きていると正しい判断ができないために、後悔するようなことを言ったり行ったりするのではないでしょうか。ヤコブの手紙2章10節が「律法全体を守っても、一点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。」と、パウロが「律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。(ローマ人への手紙3章20節)」と、語っているように、人は完全ではないので、すべての人は、罪悪感や罪責感に悩まされることが多々あるのではないでしょうか。今日の聖句は「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」と、罪が増し加わったら必然的に罪悪感や罪責感が増すのが当然と思われますが、かえって恵みが満ちあるれる、という驚くべきことを語っています。イエス様はペテロに、金貸しからひとりは500デナリ、ほかのひとりは50デナリを借りたけれども返すことができなかったので、ふたりとも赦してやりました。ふたりのうちどちらがよけい金貸しを愛するようになるでしょう、と尋ねるとペテロは「よけい赦してもらったほうだと思います。」と答えるとイエス様は「あなたの判断は当たっています。」と仰せられました(ルカの福音書7章41節―43節)。ヘブル人への手紙4章16節の「私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」という勧めに従って、良心のとがめを受けたときにはすぐにそのことを主に申し上げるとともに、その過ちはすでに十字架で処理済みであることを思い起こし、良心のとがめを受けるたびに御子イエス様をお遣わしくださった神の愛と恵みに満ちてられるイエス様に感謝しながら、自分で自分を罪に定めるようなことをせずに恵みに恵みが増し加わる恵みに満ちた人生を歩もうではありませんか。