エズラはバビロンから上って来た者であるが、イスラエルの神、主が賜ったモーセの律法に通じている学者であった。彼の神、主の恵みの御手が彼の上にあったので、王は彼の願いをみなかなえた。(エズラ記7章6節)

1.ネヘミヤ記17節―29
2.詩篇921節―5
3.イザヤ書4117節―20
4.使徒の働き1119節―23

パウロは「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か。すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ人への手紙12章2節)」と勧めています。クリスチャンでなくても祈ることをしますが、世の人々の祈りの目的や対象は限られているのではないでしょうか。イエス様は世の人々と同じような祈りをしないように勧めました(マタイの福音書6章7節)。パウロはキリスト者に「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。(テモテへの手紙第一2章1節―3節)」と、主の御前に良いことであり喜ばれる祈りについて語っています。今日の聖句の注目すべき点は「主の恵みの御手が彼の上にあった。」ではないでしょうか。興味深いことにネヘミヤの場合もエルサレムの城壁再建の働きをペルシャの王アルタシャスタ王から許可していただくために四ヶ月間(キスレウの月からニサンの月)昼も夜も祈られましたが、祈りの最後に「ああ、主よ。どうぞ、このしもべの祈りと、あなたの名を喜んで敬うあなたのしもべたちの祈りとに、耳を傾けてください。どうぞ、きょう、このしもべに幸いを見せ、この人の前に、あわれみを受けさせてくださいますように。」と主に申し上げ、その願いがかなえられたのは主の恵みの御手が私の上にあったから、と語るとともに王は安全に旅ができるように、彼が願わなかった将校や騎兵をもつけてくださったことを語っています(ネヘミヤ記1章11節―2章9節)。箴言21章1節に「王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。」とあります。パウロが勧めているように日本だけでなく世界の指導者の方々のために願い、祈り、とりなしをするとともに、恵みの御手を差し伸べてくださる主に感謝をささげようではありませんか。