弟子はその師にまさらず、しもべは主人にまさりません。弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。(マタイの福音書10章24節―25節)

1.ルカの福音書639節―45
2.ヨハネの福音書154節―9
3.コリント人への手紙第二61節―10
4.ヘブル人への手紙122節―11

今日の聖句の前にイエス様は弟子たちに、弟子たちがイエス様と同じように迫害に会うことを預言されましたが、それはイエス様をあかしするチャンスであることをも語られました(マタイの福音書10章18節―20節)」。ルカの福音書6章40節―44節においてイエス様は「いったい、盲人に盲人の手引きができるでしょうか。ふたりとも穴に落ち込まないでしょうか。弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。」と仰せられてから「自分の兄弟の目にあるちりを見ながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、『兄弟、あなたの目のちりを取らせてください』と言えますか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。木はどれでも、その実によってわかるものです。」と、仰せられました。自分の義に生きてしまうと、盲人、すなわち、自分を義人と自任して他の人々を見下していたパリサイ人(ルカの福音書18章9節ー14節)のように自分の罪が見えなくなり正しい判断ができないばかりか良い実をつけることができないことを示唆しているのではないでしょうか。今日の聖句「弟子はその師にまさらず、しもべは主人にまさりません。弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。」はイエス様ご自身を模範として生きてほしいという主の願いがあるのではないでしょうか。良い木であるイエス様につながらせていただいているのですから、自分こそ正しい、というような思いを抱いた時、自分の思いや感情に欺かれないように私たちのためにイエス様がご自身をささげるためにどれほど苦しまれたかを思いこし、主の前にへりくだり、平安な義の実(ヘブル人への手紙12章11節)、聖霊の実(ガラテヤ人への手紙5章22節―23節)を結ぶことができるように、みことばで生きることができるように、聖霊様に助けていただこうではありませんか。