キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られたということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。(テモテへの手紙第一1章12節)

1.マルコの福音書214節―17
2.ヨハネの福音書316節―18
3.ローマ人への手紙319節―26
4.ローマ人への手紙56節―11

パウロはパリサイ人として生きていた時には、律法による自分の義に生き、自分の考えでナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきと考えてキリストを、教会を迫害していましたが、キリスト者となり聖霊に満たされたことによって(使徒の働き9章17節)自分の中に罪があることを知る者となり「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と、心の葛藤を覚えて悩みましたが、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」と解決がキリスト・イエスにあることを知ったのでした。パウロは「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られたということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」と、ご自分のことを「罪人のかしら」と称してかつてはキリスト者を迫害していた者であることを告白するとともに、キリスト者が異端をはじめさまざまな教えに振り回されないために(テモテへの手紙第一1章3節―5節)、イエス様が来られた目的が何であったかを忘れずに単純な信仰に生きることを勧めているのではないでしょうか。自分を義人だと自任して自分の義に生きていたパリサイ人や律法学者たちにとって彼らが見下している取税人や罪人たちと一緒に食事をしているイエス様のことが理解できなかったように、世の人々は自分の義に生きているために、自分が罪人であることがわからないために罪の解決を与えてくださるイエス様が必要であることがわからないのではないでしょうか。イエス様は「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。(ヨハネの福音書16章8節)」と御霊の働きを語っています。御霊が世の人々の心に働かれるように祈ろうではありませんか。