信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださることとを、信じなければならないのです。(ヘブル人への手紙11章6節)
1.マタイの福音書15章21節ー28節
2.ヨハネの福音書14章12節―14節
3.ヤコブの手紙5章13節―18節
4.ヨハネの手紙第一5章5節―15節
イエス様が祈り終えると、イエス様の弟子のひとりは、ヨハネが彼の弟子たちに祈りを教えておられることを知っていながら、彼はイエス様に祈りを教えてくださるように願ったので(ルカの福音書11章1節―2節)、イエス様は「祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」と、キリスト者は世の人々と同じような祈り方をしないように、私たちが祈りをささげる方は私たちの父であり、私たちに何が必要なのかを知っておられる方であることをわきまえて祈るように話されてから、「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あす炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち」と言われてから、神の国とその義とをまず求めるなら、世の人々が求めているようなものは与えられることを約束されたのでした(マタイの福音書6章7節―8節及び27節―33節)。今日の聖句が「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださることとを、信じなければならないのです。」と語っているように、神がどのような方であるかを心にしっかり据えて信仰がともなう願いや祈りを捧げるようにしようではありませんか。