何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださること、これこそ神に対する私たちの確信です。(ヨハネの手紙第一五章14節)

1.マルコの福音書14章32節ー36節
2.ピリピ人への手紙213節―16 
3.ピリピ人への手紙44節―7
4.テモテへの手紙第一21節―6

今日の聖句は「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださること、これこそ神に対する私たちの確信です。」と、キリスト者が持つことができる「確信」について語っていますが、神に対するものであり、そのためにはヘブル人への手紙11章1節が「信仰は望んでいる事がらを保証し、目にみえないものを確信させるものです。」と語っているように、信仰が不可欠なのではないでしょうか。しかも、その願いが神のみこころにかなうものであるかどうか、ということが提示されています。神のみこころにかなう願いをするためには、イエス様が「その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。(ヨハネの福音書16章13節―15節)」と仰せられたように、御霊を持つ必要がありますが、幸いなことにキリスト者には御霊が与えられているのです(ヨハネの福音書7章39節)。ですから、パウロは「「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての生徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(エペソ人への手紙6章18節)」と勧めているのではないでしょうか。窮地に陥った時、イスラエルの民の指導者たちは神の約束をもって神に願い事を申し上げたように、みことばによって神のみこころを知ることができるのではないでしょうか。自分の願いと神様のみこころが違っていて思い通りにならないことがありますが、その原因をヤコブの手紙4章3節は「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」と語っていますが、キリスト者には御霊が与えられているので、神のみこころかどうか本当はわかっているのではないでしょうか。みこころにかなった願いであっても、成就してくださるのは主であり、主の時はいつも私たちが考えている時と同じではなく、時差がある場合があることを心に据えて(伝道者の書3章11節、ペテロの手紙第二 3章8節)、神に対する確信を失って不信仰に陥ることのないように、主の前に静まって、主の時を待ち望もうではありませんか。