私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル人への手紙4章16節)

1.ヨハネの福音書114節―17
2.ローマ人への手紙517節―21
3.エペソ人への手紙21節―18
4.ヘブル人への手紙10章1節―18節

ヘブル人への手紙10章1節―4節は「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。」と、旧約聖書の時代は、いけにえを捧げることによって罪は赦されても取り除かれることがなかったのですが、バプテスマのヨハネはイエス様について「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と罪を取り除くことができる方であり、人ではなく神よって備えられた方であり、ヘブル人への手紙10章14節が「キリストは聖なるものとされる人々を、一つの捧げ物によって、永遠に全うされたのです。」と語っているように律法にはできなかったこをなされたのでした。その上ヘブル人への手紙10章17節―18節に「『わたしは、もはや決して彼らの罪と不法を思い出すことはしない。』これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物は無用です。」と、十字架で意味の深さを語っています。今日の聖句は「私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」と語っていますが、大胆に恵みの座に近づくことを可能にしたのは、十字架の死をもって、恵みとまことを実現されたイエス様が私たちのすべての罪を贖ってくださったことによるものであるがゆえに「恵みの座」と語っているのではないでしょうか。ヨハネの福音書1章16節は「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」と、ローマ人への手紙5章20節は「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」と、日々恵みに生きることの大切さを語っているのではないでしょうか。主に自分の過ちや罪を赦していただくために言い表すことは大切ですが、恵の座ですから、後悔するよりも、それらの罪もすでに十字架で支払われている恵みを覚えて主に感謝し、主に心のうちを正直に申し上げて、自分で何とかしようとするよりも主の助けを待ち望もうではありませんか。